メンデルスゾーンの生涯

1809年2月3日、裕福な銀行家の父アブラハムと、母レアの間に、長男フェリックス メンデルスゾーンが生まれた。
姉のファニーと共に幼い頃からピアノ、作曲のレッスンを受け、早くから恵まれた天分を発揮し、周囲を驚かせてきた。後のメンデルスゾーンを代表する歌曲『歌に翼に』の詩人であるハイネは少年時代のメンデルスゾーンについて「音楽上の奇跡」と語っている。
そうした、周囲の評価にもかかわらず、フェリックスが職業として音楽の道に進むことに懐疑的であったアブラハムは、イタリアの作曲家ケルビーニにフェリックスをひき合わせ、そこで息子の将来について最終的な決断を下した。
フェリックスは、自作の『ピアノ四重奏曲 ロ短調』を演奏し、それを聴いたケルビーニはすぐさまフェリックスの才能を認め、音楽家としての将来を約束した。
16才になったそのころのメンデルスゾーンには、すでに音楽家としての自覚が十分に芽生えていた。
そして、10代の少年によるものとしては比類のない完成度と独創性に優れた傑作、『弦楽八重奏曲』、序曲『真夏の夜の夢』を世に送り出し、幾多の困難を乗り越え、音楽史上もっとも重要な出来事のひとつに数えられる『マタイ受難曲』の復活上演を果たした。

その後ベルリンを離れ、ヨーロッパ各地を旅行し積極的に様々な人たちと交流し見識を深め、世に出る機会をうかがっていた。
それまでのメンデルスゾーンは確かに順風満帆ではあったが、この若くて才能がある裕福なユダヤ人に対する風当たりは強く、ツェルターの後任として、ベルリンジングアカデミーの指揮者に家族や友人の強い勧めで渋々志願したメンデルスゾーンは、長い選挙戦の結果、(フェリックスの予想通り)落選してしまった。この件に憤慨したメンデルスゾーン一家は、ジングアカデミーから一切手をひいてしまった。

ベルリンに拒否されたメンデルスゾーンだったが、デュッセルドルフ市に招待され、そこで音楽監督を務めた。しかしここでは思うような仕事ができず、次の仕事場を探すことになった。
そして、26才の若さで、音楽的に重要な都市といえるライプツィヒ市のゲヴァントハウス交響楽団の指揮者に就任した。ライプツィヒ市民はベルリンでは考えられないほど暖かくメンデルスゾーンを受け入れてくれ、メンデルスゾーンはライプツィヒできわめて充実した活動を行うことができた。
彼はまず、オーケストラ団員の給料をあげ、労働環境を改善し、団員たちの地位の向上のために尽力した。そうして、団員たちの信頼を勝ち得ていったメンデルスゾーンは、ゲヴァントハウスの演奏水準も向上させ、古楽の復興、シューベルトの交響曲『グレイト』(シューマンが草稿の中から発見しメンデルスゾーンに演奏を託した)シューマン等同時代の音楽の紹介などの活動をとおして、ライプツィヒをドイツ一の音楽都市に発展させた。また、メンデルスゾーン自身も、ロンドンなど各地での演奏、オラトリオ『聖パウロ』の成功で、彼の名声はヨーロッパ中に高まりつつあった。プライベートでも1837年、フランクフルトで知り合った、セシル=ジャンルノーと結婚し、公的な活動で多忙ではあったが、幸せな家庭生活を手に入れ、「言葉で言い表せないほど、幸福である」と語っている。

1840年になると、ベルリンでは、フリードリヒヴィルヘルム4世がプロイセンの王位に就いた。芸術分野に力を入れる王は、ベルリンの名門出身ながら、事実上ベルリンを追放されているメンデルスゾーンに戻ってくるよう要請した。王立芸術アカデミー音楽部門主任、新しい音楽学校の創立、そうした仕事の肩書きは申し分なかった。給料もライプツィヒよりよく、メンデルスゾーン一家はフェリックスにベルリンに戻ってくるように勧めた。
フェリックス自身は、自分が、宮廷の装飾品に過ぎず、宮廷の官吏たちとうまくいかないことは熟知しており、仕事内容や計画、自分の権限についてなどについてベルリンとやりとりしたが王の正確な言質が取れず、いらだっていた。そして、弟のパウルが王に頼まれ仲介に入り、結局断りきれず、1841年、ベルリンに移った。

ベルリンでメンデルスゾーンを待ちうけていたものは、保守的で抑圧された空気、オーケストラ団員の敵意、物事の遅滞、障害、そうした問題に対する宮廷の官吏たちの言い逃れであった。メンデルスゾーンは家族といる時以外、気の休まることがなく、次第に疲労し、健康をくずすようになり、1844年、やっとの思いで王に辞任を申し出た。

なんとかベルリンから開放されたメンデルスゾーンは、再びライプツィヒへ移った。こうした事態を予想していた彼は、ライプツィヒに自分の居場所を確保していた。
ライプツィヒへ向かう前、フランクフルトで静養中、アメリカから招待があったが、それは健康上の理由から丁重に断っていた。メンデルスゾーンは一年くらいの完全な休養の必要性を感じていたが、実際はゲヴァントハウスのみならず、各地での演奏活動、とりわけ、新しいオラトリオ『エリア』の作曲、公演に、文字通り全精力を注いだ。

1847年5月、10度目の、また、最後となる渡英で、前年初演し大成功を収めた『エリア』の改訂版の指揮、ベートーヴェンのピアノ協奏曲の演奏、その他、音楽的、公的な様々な仕事や、多くの友人訪問を行った。そして、疲労困憊でライプツィヒに帰る途中立ち寄ったフランクフルトでの二日目、弟パウルから、姉ファニーの突然の死を知らせる手紙を受け取った。
通常の姉弟という関係以上に親密だったファニーを失い、メンデルスゾーンはすっかり気落ちしてしまい、立ち直る気力も失ってしまった。

1847年10月、以前から頭痛に悩まされていたメンデルスゾーンは発作を起こし倒れた。その後、2度の発作を繰り返した。そして、ファニーが亡くなってから半年にも満たない、11月4日、家族や友人たちに見守られ、38才の生涯の幕を閉じた。